免責と寄り添いの社会的費用
- HANDA Nobuyuki

- 11 分前
- 読了時間: 4分

ワイドショーやバラエティ番組を眺めていて、日常的に目に留まる構図があります。
アナウンサーやタレントと呼ばれる人々が発する言葉のそこかしこに、「免責」の言葉を散りばめプロテクトしている。
「あくまで個人の感想ですが」「一部の例ではありますが」「諸説ありますが」、また意図したニュアンスで周りが「あくまでこいつの感想です」なんてコメントする。
拡散や炎上にならぬよう、注意を払って自らの言葉と振る舞いに“保険”をかけている一方で、同じ口から「私たちは傷ついた人々に寄り添っています」「頑張っている人を全力で応援します」というメッセージが、それこそ執拗なまでに発信されます。
まあ彼らとしては免責と寄り添いの立ち回りが出来てこそ、使ってもらえるのでしょう。そういう我々もビジネスシーンで同様に振る舞ってますね。
もちろん背景にあるのは、デジタルネットワークの普及によるSNSや配信プラットフォームの世界的な広がりによる、「他者認知の環境変化」なのでしょう。かつては身内、所属する組織や目の前の人間だけに区切られていた他者からの視線が、今や地球規模の広がりを持って、いつでも自分に届くようになりました。誰もが発信者になり、同時に「いつでも不特定多数から認知され、評価・批判される存在」になりました。
一方で、トランプさんは猫の目にも負けない頻度でコメントをXにあげている。これに対しては多分、今や多くの人は内心、『個人的な』コメントとして処理している・・・最も公的な存在の米国大統領なのに!〔笑〕
また、コンビニや飲食店他、街中でも「免責系トラブル」がそこかしこで発生しています。
先日もスーパーのレジで並んでいると、会計中の年配の男性客が「なんで最初に言わないんだ!」と声を荒げている(具体的な事はわからないが)。
こういう場面、以前は「運悪く変なタイミングで並んじゃったなあ」と反応していましたが、、
最近は独り言で ”シャ・カ・イ・テ・キ・ヒ・ヨ・ウ”(社会的費用)と呟く、、そうする事で何かを和らげている様な気になる(これもプロテクトの一種ですね、笑)
考えてみれば前職の時も、販促の文言や、トークスクリプトなど、常に「免責」と「分かり易さ」と「寄り添い」のバランスを考えていたもんです。これって、相手を突き放すための免責ではなく、相手を不快にさせず、角を立てず、なんとか「社会の空気」の中に免責を柔らかく馴染ませようとする工夫(苦肉の策)とも捉えられる。
また別のビジネスシーンで増えてきているのが、AIを活用し一見綺麗に仕上げた風な資料を元に担当者が説明をしている場面です。こちら側が想定の背景や意図の確認を投げかけると、整合性のある説明が返ってこない。 おそらく、AIの出力に寄りかかってしまい自らの思考プロセスの放棄を無意識に「免責」してしまったのでしょうね。しかし、そのまま免責を了解してしまっては仕事にならないので、こちらも”寄り添って”対話を試みる。気がつくとその方へのコーチングが始まってしまっている(笑)。これも私たちが担う ”シャ・カ・イ・テ・キ・ヒ・ヨ・ウ”ですね。
ドラッカーの言を借りて
「人のマネジメントとは、人の強みを発揮させることである、人は弱い。悲しいほどに弱い、問題を起こす。手続きや雑事を必要とする。人とは費用であり、脅威である。
しかし人は、これらのことゆえに雇われるのではない。人が雇われるのは、強みゆえであり能力のゆえである。組織の目的は、人の強みを生産に結びつけ、人の弱みを中和することにある。」
人は面倒くさくて、コストがかかり、時に防衛的になって免責を求めてしまう「弱い」存在です。しかし、それを切り捨てるのではなく、互いの弱みを中和し合い、強みを引き出し合うためにこそ「組織」や「マネジメント」がある。これこそが、私たちが払うべき「正しい社会的費用」なのかもしれません。
さて皆さんは、日々の仕事のなかで、どんな「免責」や「プロテクト」を使い、そしてどんな「中和」の技を持っていますか?



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